任天堂って、世界的にも売れていてすごいゲームメーカーですよね。
実は成功ばかりではなく、おもちゃ以外の事業は全部失敗して倒産しかけていたこともあったのです。
今回は、任天堂が生み出した自社とその関係者が安心して利益を受け取れる共生システム『プラットホーム・ビジネス』について紹介していきます。
任天堂の成り立ち
花札製造メーカーからおもちゃメーカーへ転身
任天堂は、花札の製造販売から始まりました。
3代目のとき、博打用トランプにディズニーキャラクターを採用し、子供向けのおもちゃとして販売し大成功しました。
これを足掛かりに、花札メーカーからおもちゃメーカーに転身します。
おもちゃ以外の事業は失敗続きだった
任天堂は、おもちゃ以外の電卓・ベビーカー・ホテルなどの事業に乗り出しますが、失敗し1973年に倒産寸前の経営状態になります。
そんな中、アメリカでは「アタリ社」がヒットさせた電子ゲーム市場が盛り上がってゲームセンターブームが起きます。
そこで、三菱電機から任天堂にゲーム機を商品化する気はないか?と誘いを受けるのです。
任天堂の経営は黒字に
任天堂は、ITスキルを身に着けゲーム業界に進出しました。
1980年に「ゲーム&ウォッチ」や1982年「ドンキーコング」を発売し、大ヒットさせたおかげで、多角化失敗時の負債はなくなり、倒産を回避できるようになりました。
アメリカのゲーム会社「アタリ」の功罪
アメリカのアタリ社が販売したゲーム機が大ヒット
当時アメリカでは、ゲーム会社アタリが1977年に発売した「VCS」と呼ばれるゲーム機が大ヒットしていました。
大ヒットの理由は、「サードパーティ」と呼ばれる自社以外が開発したゲームソフトを販売するという手法がウケたためです。
ニンテンドーswitchを例にすると、自社開発のマリオではなく、カプコンの開発したモンスターハンターなどが大ヒットするみたいなものです。
クズソフトが市場にあふれる「アタリショック」
その後、アタリ社たちの「サードパーティ」で儲ける姿を見た、素人ゲームソフトメーカーがたくさん参入してきたので、クズソフトばかりが発売され次第に品質が保てなくなりました。
当時のゲームユーザーは、パッケージの裏からしかゲーム内容を覗くことが出来なかったので、クズゲームをつかんでしまうことが多発してゲームソフト自体が売れなくなる「アタリショック」と呼ばれる市場崩壊が1983年に起きました。
結果として「VCS」ユーザーはドンドン離れることになりました。
アタリショックから学ぶ任天堂のライセンス制
つまらないソフトは野放しにしない
任天堂は「アタリショック」から学び、同じ失敗をしないように、ファミリーコンピューターを発売するにあたって「つまらないソフトは野放しにしない」姿勢を貫きました。
任天堂は、サードパーティ・ソフトをライセンス制にしたのです。
事前審査をクリアしたゲームメーカーのみに販売許可を出す
任天堂は、「つまらないソフトを野放しにしない」ためにハドソン・ナムコ・カプコン・タイトーなど優秀な会社のみゲームソフトの販売許可を出すようにしました。
もちろん、ソフトの企画内容など任天堂の事前審査をクリアした商品のみが販売できるような仕組みになっていました。
ファミリーコンピューターの大ヒット
世界で6,300万台も売れたメガヒット商品
1983年に発売されたファミリーコンピューターは、発売1年半後、200万台以上を売り上げる大ヒット商品になりました。
ゲームがよくわからない人のために、補足ですが一般的にヒット商品と言われるゲームの販売本数目安は20万本程度なので、ものすごく売れたことが分かりますね。
その後、任天堂の売上高は1989年に2,900億円になり、5年で売り上げも利益も4倍になりました。
最終的にファミリーコンピューターは世界で6,300万台も売れるメガヒット商品となりました。
アタリの撤退
任天堂は、1990年に次世代機スーパーファミコンを発売し累積販売台数は4,910万台となり大ヒットしました。
1996年には、アタリが撤退したことにより2001年にマイクロソフトのXBOXが登場するまで、アメリカゲーム市場は日本製ゲーム機が席巻しました。
任天堂が成功した理由
ゲーム機本体を製造価格と同じ価格で安く売る
任天堂は、ファミコンを製造価格とほぼ同じ価格の14,800円で発売しました。まずは、本体を安く販売してその後のゲームソフトで儲ける「替え刃モデル」を参考にしていたのです。
ジレットや、キャノンのように特許を利用して、替え刃やインクで儲ける1社独占型ではなく、サードパーティを幅広く活用するオープン型のスタイルでした
任天堂は、自社以外のゲームソフトは5,800円で販売させて、ロイヤリティを得ていたのです。
自社開発ソフトのノウハウ蓄積
任天堂はゲームソフトを自社でも開発しており、マリオ・ゼルダ・ドンキーコングなど名作のノウハウが溜まっています。
新機種(ハード)の発売後、サードパーティーの開発するソフトが世に出るまでの間に、任天堂は自社開発ソフトを販売できるので安定したゲームソフト供給を行い、市場を安定させることが出来るのです。
ゲームソフトメーカーは普及しないかもしれないハードに専用ソフトは作りません。その為アタリの「VCS」は有力なゲームソフトメーカーを呼び込めなかったので衰退していくことになります。
任天堂が生み出したプラットホームビジネス
自社とその関係者が安心して利益を受け取れるシステム
任天堂は、自社とその関係者が安心して投資して、利益を受け取れる「共生システム」としての世界同一プラットホームモデルを作り上げたのです。
自社の周りだけで開発と販売ができるので、ゲーム開発にかかわった企業や投資家もみんなが幸せになりました。
最後に
今回は、任天堂が生み出した自社とその関係者が安心して投資して、利益を受け取れる共生システム『プラットホーム・ビジネス』を紹介しました。
花札の製造販売から始まった任天堂ですが、おもちゃメーカーとして再出発をしました。
任天堂は、1973年には経営が悪化して倒産寸前になりますが、他社のビジネスモデルをマネて引き継ぎ、他社の失敗に学ぶことで世界的販売台数を稼ぎ出すことが出来たのです。
本体を安く販売してその後の商品で儲けるジレットの『替え刃』モデルから自社とその関係者が安心して投資して、利益を受け取れる任天堂の『プラットホーム』モデルが生まれました。
ビジネスモデルを学ぶことによって、社会の裏側を知ることが出来ます。
明日から、友人家族にプラットホーム・ビジネスモデルのお話をしてみてくださいね。