ホンダと言えばバイクですよね。
実は最初にアメリカに乗り込んだ自動車メーカーは、トヨタでなくホンダだったのです。
今回は、トヨタよりも先にアメリカに乗り込んで成功したホンダについて紹介していきます。
ホンダはどういう会社?
ホンダは、本田宗一郎が1946年に作った本田技研工業株式会社が正式名称で海外ではHONDAブランドで展開されています。
オートバイの販売台数売上高は、世界1位で自動車の販売台数は、世界第7位になります。
実力主義の社風
本田宗一郎の名参謀であった藤沢武夫の「ホンダ社長は技術者出身であるべき」という言葉通り、歴代の社長はすべて技術者出身です。
また創業者一族による会社の私物化の弊害を恐れる本田の信念が貫かれ、縁故採用は一切行わず、実力本位の採用を行っている企業でもあります。
アメリカへ最初に乗り込んだ日本の自動車メーカー『ホンダ』
ホンダは、1959年バイクのアメリカ市場に攻め込み、ハーレーを倒し成功しました。
当時大きかったハーレーよりも大衆が乗りやすい小型のカブが安くて売れたのです。
ホンダは1963年には、自動車製造に乗り出し、アメリカでも小型自動車を売り込むことにしました。
しかし、日本製の小型自動車は「安かろう悪かろう」でアメリカ人にはバカにされていました。
- ・日本の車は小さくてアメリカ人は乗りづらかった。
- ・アメリカ人は品質の低い車を嫌う文化があった。
- ・高速道路を走るとオーバーヒートしていた。
ホンダの転機「マスキー法」の登場
自動車業界の締め付け
アメリカでの自動車販売に苦戦していたホンダに1970年、転機が訪れます。
「5年以内に排気ガス中の有害成分を10分の1にする」マスキー法がアメリカ議会を通り、自動車メーカーに義務付けられるようになりました。
当時BIG3と呼ばれるフォード・クライスラー・ゼネラルモーターズは条件が厳しすぎて法案に反対していました。
そこでホンダはマスキー法をチャンスととらえ、技術陣の総力を挙げた環境エンジン「CVCC」を開発し、世界で最初にマスキー法基準をクリアします。
ホンダは、翌年からフォード・クライスラー・トヨタへ環境エンジンの技術提供をするぐらい技術力があったのです。
さらに追い風「オイルショック」
ホンダの開発力に加えて味方したのが、1973年におきた「オイルショック」です。
ガソリン価格が1リットル=2ドル(約220円)から12ドル(約1,323円)に値上がりしたことで、ホンダの環境にやさしい低燃費な自動車はアメリカでも人気がでるようになりました。
フォードの工場を視察して勝ちを確信する
敵のレベルを知る
ホンダは、1976年にフォードから提携の打診を受けて、基幹工場の視察を行いまいました。
フォードの工場は圧倒的な規模でしたが、生産思想や方式が古いことを学びとりました。
ホンダはすでにロボットによる溶接や迅速な金型交換による一貫生産によって大量生産(規模)に依存しない効率の良い生産方法を確立していました。
ホンダは副社長をアメリカに送り込む
ホンダは、視察でアメリカのライバル企業に勝てることを知り、ホンダ副社長で、のちにセガの社長になる「入交昭一郎」を送り込み、初めて日本の自動車メーカーで現地生産を決断した会社になりました。
1977年、オハイオ州に65億円でバイクの生産工場を立ち上げ、1982年に自動車の生産を始めました。
入交昭一郎に率いられた生産会社HAMは、ホンダの哲学や生産理念を現地流に直した「ホンダ・ウェイ」を作り上げ、圧倒的な技術力でアメリカの自動車市場を奪うことに成功しました。
ちなみに、入交昭一郎はセガサターン用ソフト「サクラ大戦」のプロデューサーであり制作指揮をとった人物で、ドリームキャストを開発した人物でもあります。
最後に
今回は、トヨタよりも先にアメリカに乗り込んで成功したホンダについて紹介しました。
ホンダは、本田宗一郎が1946年に作った会社で、オートバイの販売台数売上高世界1位で、自動車の販売台数は世界第7位になります。
1963年に自動車製造に乗り出し、トヨタより先にアメリカで小型自動車を売り込むことにしましたが、当時の日本車は不人気だったため1度目のアメリカ進出は失敗に終わりました。
その後、環境に厳しいマスキー法案やオイルショックなど自動車製造メーカーへの制約が強くなる中、ホンダだけが環境に適した低燃費エンジンを作ることに成功し、高い自動車技術を世界に広めるきっかけになりました。
ホンダの高い技術力は、自動車業界でBIG3と呼ばれていたフォード・クライスラーにも提供されることになり、自動車業界の発展に大きく貢献した企業になったのです。